今年、日本国憲法施行 70 年の節目を迎えました。
衆参両院で改憲に積極的な勢力が、改憲発議に必要な 2/3
の議席を占めていることもあって、近時にわかに改憲議論が活発化しつつあるように見えます。また、ついに内閣総理大臣が、改憲の日程的見通しと具体的内容について言及しました。今、日本国憲法は、施行後最大の岐路に立たされていると言って間違いないでしょう。
今、我々は憲法についてどう考えるべきなのでしょうか。改憲勢力の勢いとは裏腹に、具体的議論それ自体は遅々として進んでいない印象も一方では見られます。
そこで、憲法とは何か、今改憲の必要はあるのかについて考えてみました。
考察を始める前に、まず私の立場を表明しておかなければならないでしょう。私は、護憲か改憲かのどちらかに決めよといわれれば現在のところは護憲派です。ただ、日本国憲法は神聖不可侵であるから議論することすら畏れ多いとするいわゆる憲法教信者でもありません。
憲法は大きく、人権と統治の部分から成り立っていますが、人権の部分については現在の憲法は十分な機能を果たしているので改憲の必要はないと考えるものの、統治の分野について、特に参議院の存在については、それが現在のまままったく無批判に存在することには懐疑的な立場をとります。従って、憲法改正の議論が、国民の民主的な意思決定過程の一環としての参議院の存在をどう考えるかということに、仮に集中するのであればむしろ積極改憲論者と言うことになるでしょう。
さて、現在展開されている改憲論を大まかに整理してみると、凡そ次のように分類できると思います。
1.70年の時を経て時代の潮流に合わなくなった説
2.新しい人権や緊急事態条項を加憲すべき説
3.押しつけ憲法説(自主憲法制定説)
4.他国は改憲を繰り返している説
5.憲法教
本稿では、これら5つの立場について、それぞれの主張を整理し、その是非を紐解いていきたいと考えます。
1.70年経った憲法は本当に古くて時代に合わないのか?
現行の日本国憲法の施行の日から70年が経過しました。制憲後ないしは改憲後70年間手つかずの憲法と言うのは世界中でも珍しい存在となったことは間違いありません。一般的な庶民感覚からしても、70年間手つかずのものを古いと考えるのはごく自然なことだと言えましょう。
しかし、憲法の新旧と言うのは、制定(改憲)時からの経過時間の長短で図ることができるのでしょうか。実はまずこの点を明らかにしなければなりません。
マグナ・カルタ以降の憲政史を正しいと仮定するならばの話ではありますが、仮にそうであるとすれば、憲法はその内容の熟練度によって新旧が区別されます。
2.第1ステージ 実質的意味の憲法
まず、憲法と呼ばれるためには、その国家の権力構造と統治の方針が規定されていなければなりません。その意味で、単に役人の心得を示しているに過ぎない十七条憲法は、憲法の名を冠しているとしても、国家の権力構造と統治の方針が記されていないという点で憲法ではないのです。
この、権力構造と統治の方針が規定された、いわば国家の設計図との言うべき性質を帯びた法を憲法というのであり、特に、それ以外と区別する意味で「実質的意味の憲法」といいます。これに対し、単に憲法の名を冠しているだけで、憲法の実質を備えていない法を「形式的意味の憲法」と呼びます。
この分類に従えば、わが国最古の憲法とは、現在の日本国憲法といくばくかの連続性を有するものという点では大日本帝国憲法が、その連続性を考慮に入れず実質性のみに着目すれば明治維新期の政体がそれに当たるでしょう。
このように、実質的に憲法として存在しうるためには、そこに国家の権力構造と統治の方針、即ち国家の枠組みと当為(あるべき姿)が現されていなければならないのです。逆に言えば、国家の枠組みと当為さえ規定されていれば、その他の内容が強権的で非人道的なものであったとしても、それは憲法として認められるのです。また、文書であるか否かは問いません。
3.第2ステージ 近代的意味の憲法
しかし、憲法は、中世から近代にかけて人々が自由と平等を獲得する過程とともに成長してきた経緯があります。そのため、憲法には人権を守る者というイメージがあるのです。
この、憲法に規定される人権擁護規定を人権カタログと言います。そして、カタログに列挙された人権を擁護するために国家に義務を課す条項をもった憲法というのが登場しました。つまり、人権擁護のために国家権力に縛りをかけようと、もっといえば、国民の権利は国家によって守られるべきだということを国の当為とする憲法が出現しました。これが近代的意味の憲法ないし、立憲的意味の憲法とよばれるものです。
従って、国家の枠組みに加え、その当為として人権の擁護が掲げられていれば、近代的(立憲的)意味の憲法ということになります。
4.第3ステージ 現代的意味の憲法
第2ステージに至って、国民は広く国家権力から自由になりました。しかし、近代においてはこまった事象が生じたのです。それは、個別具体的な個人の特殊性を捨象して形式的な自由・平等だけを追求するとかえって不合理な不自由・不平等を助長するということが経験的に知られたのです。ごく簡単な例として、オリンピック選手と一般人を同じスタートラインに立たせて競走させる場面を想像するとわかりやすいと思います。よほど特殊な事情のない限り、一般人の走者は不当に不利な競争を強いられることになります。これがいわゆる近代の失敗です。
この近代の失敗を通して、人類は、自由かつ形式的に平等なだけでは幸福を思うままに追求できないことを経験しました。しかも、その近代の失敗は二度の世界大戦と人類初の核兵器実践使用という最悪の結末をもたらしたのです。そこで、自由であるのみならず、個々人の間に存在する個別具体的な差異を調整してより公正な競争の実現する社会と言うものが目指されるようになりました。
憲法の話に戻るならば、憲法の中でただ単に自由を保障するのみならず、その保証された自由に基づいて人間らしい生活ができるように必要な措置を講じるよう国家に求める条項を加えるものが現れたのです。これを社会権規定と言います。つまり、近代的(立憲的)意味の憲法に社会権規定が加わったものがいわゆる現代的意味の憲法とよばれるものなのです。現代的意味の憲法のものとでは、個人の特殊性の尊重と個人間の自由の社会における抵触の調整が最大のテーマとなっています。
5.日本国憲法は新しいか古いか?
このようにして、戦後70年、憲法史は進んできました。
残念ながら、現代的意味の憲法以上の幸福追求の考え方(これを時にポストモダンというようですが)は未だに登場していません。従って、第3ステージにある憲法が目下世界最新の憲法ということになります。
さて、この物差しで考えるならば、わが日本国憲法は現在第何ステージまで進んでいるのでしょうか。
まず第1ステージの国家の枠組みですが、これについては第1条から君主制を採ることが規定され、その他国会、内閣、裁判所に関する規定も盛り込まれていますから、間違いなく実質的意味の憲法です。
次に第2ステージの人権カタログですが、生命・身体の自由、言論の自由が明文で規定されているほか、13条には我々の叡智ともいうべき人権規定が存在するので(これについては加権論を検討するときに詳述します)、近代的(立憲的)意味の憲法でもあります。
最後の第3ステージですが、わが憲法には25条【生存権、国の社会的使命】、26条【教育を受ける権利】等、単に自由であるだけでなく、人間らしく生きる権利を保障すべき国の使命が規定されているので、社会権規定ももっています。従って、現代的意味の憲法でもあります。
つまり、このようにして憲法の発達ステージを尺度にして考えた場合、70年と言う経過時間の長さに関わらず、日本国憲法は最新の状態にあることが分かります。ただし、社会権については、国の使命を規定しているのみであって、国民に具体的な請求権まで付与したわけではないとするプログラム規定説という有名な判例があるので、総合的に採点するならば現代的意味の憲法ー(マイナス)と言ったところでしょうか。
しかしながら、社会権規定そのものが全く欠落している憲法は世界中にまだまだ多いのが実情ですから、ちょっと原点があるとはいえ、少なくとも文言上は紛れもなく現代的意味の憲法であるという点は、日本人が誇ってよいところだと考えられます。
従って、「70年経ったから古くなって時代に合わない」という論調は単なる感情論であるか、とりあえず庶民感覚的に説得力のありそうな論点を持ち出してきているかのいずれかと言うべきでしょう。少なくとも、憲法学の基礎としては、制定(改憲)後の時間の長短で憲法の新旧を判断するのは的を射た方法ではありません。
よって、憲法の新旧を論じるならば、文言上は現代的意味の憲法でありながら、司法判断によって一歩後退させられている点の是非を問題とすべきです。具体的請求権がないということは、国が何かをしてくれるまで待つしかないということであり、仮に国が何もしてくれなければ、極論、生存権に即していえば座して死を待つより他ないということであって、憲法25条を画餅に帰すものであるともいえます。この点をそのままにしておくほうがよいのか、それてとも何らかの請求権があることを認める条項を加えるべきなのかを議論することには大いに価値があると言えるでしょう。
今日の結論として、日本国憲法は、今なお、世界最新の憲法の1つです。文言的にはもっと現代的な文言の憲法も世界にないではないですが、実効的に機能しているうちで最新ということであれば、日本国憲法は間違いなく最新の憲法です。70年という時間の長さに目を奪われないように注意が必要です。
繰り返しになりますが、憲法の新旧はどれだけの年月を経ているかではなく、内容的に何を備えているか(どのステージにあるか)と言うことなのです。
もし、今、稀代の天才が現れて、我々を第4のステージに導いてくれる、そんな改憲案が出されれば最高ですが、価値相対主義という現代の病理は思いの外重篤なので、直ちにそれを期待するのは困難であるような気がします。
2017.05.04
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