† 法の支配と法治主義の話†
 
近時、我が国の執政長官殿がよく「我が国と法の支配の価値観を共有する国々とともに」という趣旨の発言をされており、最近では野党の議員までがその表現に倣うようになってきましたが、「そもそも我が国(日本)が法の支配の価値観を共有していないのですが…」と誰も突っ込まないので、突っ込んでおきました。そんなお話です。

というのも、我が国の憲政は、法治主義(現代においては、実質的法治主義)= rule by law に基づくものであって、法の支配 = rule of law には依拠していません。これは少なくとも日本の法学会においてはもはや争いのない事柄です。法の執行(行政権)の最高責任者である執政長官は、必要な範囲で法を解釈する権限を有していますが、しかし、法の解釈・適用(司法権)の最高責任者ではないため、勝手に解釈を変更し得る立場にはないはずなのですが、彼の人はどうやらそれをお忘れなのかもしれません…。むむむ。

いずれにせよ、法の支配と法治主義の違いは司法試験でそのまま問われたこともあるほどよく知られた問題であり、その解釈はもはや確定的です。これについて、憲法のもとで法を執行する行政機関の長たる執政長官や、国権の最高機関たる国会の議員までもが不正確な用語を用いるというのは、1国民としてなんとも寂しい感じがします。もちろん、解釈を一切変えてはならないわけではありませんが、変えるのであれば、やはりそれは適当な権能を有する機関が適切な手続きのもとで変えるべきなのではないかと思えるのです。

もっとも、両概念は確かに、ものすごく素朴かつ極めておおらかに言えば「大体同じことを言っています」。しかし、その詳細となるや結構違います。まず、実質的法治主義ですが、これは後発の分少し進んでいると言えなくもなく、憲法が議会制定法に求める合憲性の程度はより向上しており、法律制定の手続きが適正であるのみならず法律の内容が実質的に適正であって初めて合憲であると捉えようとするその視点は実質的法治主義独自のものと言えるかもしれません。他方、法の支配とは、法律等が合憲といえるための適正さについて、一種経験論に基づくとでもいうべき、人類の経験や道徳(直観的道徳というよりむしろ蓄積された人類知として発見された道徳)的価値観を基準に取り入れようとする考え方を言います。

ただ、やはりものすごく大雑把に言えば、どちらも「法(=法律やそれを制定し執行する権力)よりも更に高次の価値が存在し、それに適合して初めて法たるのであり、権力による恣意的な法の制定や執行は許されない」ということを企図する考え方であって、憲法と法律の関係においては、いずれも違憲立法審査の根拠となり得るという点で大凡一致しています。しかし、一方の法治主義(実質的法治主義を含む)が「法は如何にして高次の価値に適合すべきかという適合の様態と程度」を問題の核心に据えるのに対し、他方の法の支配は「高次の価値(=高次法)とは何か」という高次の価値それ自体の所在ないし意味を問う概念である点に着目すれば、両者は見ているところが相当違うことがわかります。もちろん、実際的な憲政運営の水準の問題として収斂させると、結局それらは極めて近似することも事実ですが、問題の核心が異なる以上、どちらに基づいて国家を築くのかはなお重要な選択です。更に、憲政史の成立過程という歴史的事実によって決定づけらた要素も多分に関係してきますので、一方を他方で置き換えることは、容易ではないというか、かなり無理があります。

2018.02.02

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